いつまでも後ろ向きなことばかり、と周りは言う。

 痛みを数字にすることはできない。もしできたら、同じ出来事でも人によって感じる痛みが違う、そんな当たり前のことを、みんな、わかってくれるのだろうか。

 

 病院のにおいは苦手だ。自分が、消毒されるべきもののように錯覚してしまうから。

 薄暗い個人医院の待合室に入ってすぐ、受付で、財布から小銭を取り出している夏海を見つけた。真夏らしいノースリーブのシャツ。二の腕までの黒くて長いアームカバーをつけている。まだこちらに気付いていない。何かの紙――おそらく領収書と処方箋を受けとって財布とともに鞄へしまい、歩いてくる。顔を俯けて歩いていて、近くまで来てもまだわたしの存在に気付かなかった。

 後からやってくる患者も出ていく患者もいない。そのまま入り口に突っ立っていると、ぶつかりそうなくらい近づいたところで、ようやく夏海は顔をあげた。

「あの……」

 と言いかけ、夏海の顔がみるみるうちに恐怖におびえるものに変わった。夏海は一歩下がり、二歩下がり、周りを慌てて見まわすけれど、狭い個人医院、一般用の出入り口はここしかない。

 夏海の左手を右手で掴んで引っ張りながら、入り口のガラス扉を押し開けた。

 外に出ると蒸し暑い空気が身体にまとわりついて、蝉の声が一気にうるさくなった。夏海が往生際悪く逃げ出そうとするので、わたしは空いている左手で、夏海の肩を突いた。彼女は簡単にバランスを崩した。個人医院の白壁に背中をぶつけ、入り口の脇にあるベンチへ腰を落とした。

 座った夏海を、立ったまま、見下ろす。

 わたしは自分でもよくわからないまま沸き立つ怒りを抑えるのに必死で、言いたいことをうまく言葉にできなかった。

 顔を背けてあさっての方向を見ている夏海に、かろうじて、

「どうして」

 とだけ言えた。

 すると夏海はびくりと肩を揺らし、ひどく傷ついた様子で、こちらの目を見た。そして、再び目を伏せた。

「夏希みたいな人には、わからないよ」

 違う。

 どうして切ったかなんて、どうでもいい。

 どうして、救急車で運ばれるほど強く腕を切ったかなんて、どうして、わたしに連絡がくるほど強く、家族に当たり散らしたかなんて。

 わたしと夏海のあいだでは、いまさらだ。

 けれどその当てつけがましい言葉に、言葉にできない怒りを伴ったまま、さらに苛立ちが大きくなる。

「わたしみたいって、何」

「夏希みたいに、すぐに友達が作れて、勉強も、バイトも、なんでもうまくできて、強い人には、わからない。もういいでしょ。放っておいてよ、わたしのことなんか。最近さあ、自分が自分だってことが、心の底から嫌になるんだよ。夏希と一緒にいると」

 悪口を言っているのは夏海のほうなのに、夏海が悪口を言われているかのような、泣き出しそうな表情だった。

 わたしは傷ついています。そう言いたげな、表情。

 わざとらしく、そんな顔をしないで。

 もういい。

 最低。

 見に来なければよかった。

 心配なんてしなければよかった。

 言葉にならない言葉たちが、表に出ようともがいている。自分が自分がと。

 けれど表に出ようとした言葉が初めに通った場所は、声帯ではなく、右目だった。

 先ほどまで感じていたはずの熱を、一気に冷やす言葉。

 わたしは、すぐに顔を背け、背を向け、歩き出した。自然と、走りに変わった。

「夏希」

「夏希、待って、ごめん」

「待って、待ってよ!」

 だんだんと声を大きくする夏海に背を向けて走り、とにかくどこかへ逃げようとした。

 だから、適当に入った路地が、行き止まりだと気づかなかった。この暑さの中を走ったせいで、一気に汗が噴き出してくる。もう人の住んでいない廃屋の、片方が外れかけた門扉の前で、わたしは後ろから近づいてくる夏海をじっと待つことしか出来なくなった。手を入れられず、青々と茂った木に蝉がへばりつき、真正面から鳴き声を浴びせかけてくる。

 右腕を掴まれたので、振り払った。

 けれど夏海はしつこく右腕を掴んできた。疲れてしまい、四度目で振り払うのをあきらめた。

 夏海が、頑張って見つけたアルバイト先で、どんなひどい言葉を吐きかけられたかなんて、知らない。ある社員に手首にある傷跡を目ざとく見つけられ、傷跡をえぐるような、どんなに無神経な言葉を、吐きかけられたかなんて。

 そんなことはどうでもよかった。

 大きな血管を傷つけ、救急車で運ばれたことを、二週間もわたしに黙っていたことのほうが、よっぽど、大きな問題だった。

 高校一年のあの夏、わたしと口論して腕を深く切った夏海のことを、いまでも覚えている。

 気持ち悪いと思った。もう付き合いたくないと思った。

「何年も、何年も、こんなことに付き合わせておいて、どうしてまだ、隠すの? どうして、こんな大事なこと、わたしに教えてくれないの?」

 わたしはまた溢れてきた涙を左手で乱雑に拭い、体を、顔を、夏海に向けた。

「いまさらだよ。それとも、もうわたしは要らない? なら、初めから、隠しておいてよ! 初めから、わたしの目の前で、自分のことを切ったりなんてしないでよ!」

 涙を隠すのはもうやめた。みっともなくまき散らしながら、わたしの右腕を掴んだままの夏海にぶつけた。

「どうしてわかってくれないの? 夏海のことなら、なんでも、受け止めるのに。何かあったら、わたしに連絡して。這ってでも、わたしのところへ来て!」

 ずっと、夏海に依存されていると思ってきた。

 でも、依存しているのはきっと、夏海だけじゃなかった。

 自分が居なければこの子は何もできない。夏海を見下したような気持ちを、自分のよりどころにしている、そんなことが本当になかったと、言えるだろうか。

「だから、わたしの知らないところで、いなくならないで……」

 わたしの喉の奥から出たかすれ声に反応した夏海が、わたしの腕を引いて、こわごわと、身を寄せてくる。

 小学生のときから、わたしはいつも、夏海に自立してほしいと思ってきたし、あえて突き放すときもあった。その甲斐もあってなのか、最近の夏海は、わたしがいなくても、自分の人生と向き合えるようになってきているように思えた。毎日のように一緒にいた以前とは違い、一週間に一度も会わないことも珍しくなくなった。これは夏海にとってもわたしにとってもいいことなんだ。そう思ってきた。

 けれど、夏海のいない毎日はどこか味気なかった。いちおう、仲のいい友達はいる。その人たちとは、話していても、どこか、気持ちが上滑りしていくような付き合いだった。まったく笑えない、夏海が聴いたら卒倒するような話を――他者に対する攻撃性が滲み出す話を聞かされて、愛想笑いを浮かべるのに疲れて、眠る。そんなことを繰り返している日々。

 アームカバーに覆われた夏海の両腕に抱き留められ、わたしは初めて、自分も夏海に救われていたんだと気付いた。

 わたしと夏海はきっと、感じる痛みの感覚が、とても、近い。わたしが痛みを覚えるようなことに、夏海が先に痛みを覚えて、泣いたり、喚いたり、切ったりする。それを慰めているうちに、自分の痛みは、不安は、どこかへ消えてしまっていた。

 わたしの目の前で起こっている出来事でも、夏海が自分の立場だったら傷ついただろうなとか、そんなことばかり考えてきた。わたしがそんなふうに感じたとき、だいたいわたし自身もひどく傷ついていることに、夏海から離れてようやく気付いた。夏海の痛みの尺度は、自分の痛みの尺度でもあったんだと。

 密着した部分から汗が余計に滲み出して、暑苦しかった。気持ち悪かった。

 でもこの気持ち悪さこそ、自分が求めていたもののような気がして、控えめに体を包む両腕に、じっと、包まれていた。抱きしめ返すこともなく、棒立ちのまま。

 せっかく夏海との、深く底の見えない繋がりが断たれようとしていたのに、また、この場所に戻ってきてしまった。

 そこで、ずっとうるさく二人を攻撃し続けていた蝉の鳴き声が、やんだ。

 どこか現実感に欠けた膜の中に居たわたしは、急に、これが現実なんだということを意識した。

 やわらかい夏海の身体がぴったりとくっついてきていて、夏海の無駄にきれいな黒髪が、わたしの首の辺りにさらりと垂れている。髪をあいだにはさんで、夏海のほっぺたの感触がある。いつの間にか夏海は、痛くなるほど強く、わたしのことを抱きしめていた。

 耳たぶが赤くなっていくのをわたし自身に対して誤魔化すように、

「夏海、そういえば、鞄はどこに置いてきたの」

 もがきながら、言う。けれど夏海はわたしの身体から離れようとしなかった。

「もう少しだけ」

 そう耳元で囁いた夏海の声に、わたしは力を抜いた。あきらめて、夏海のなすがままにした。

「やっぱり、夏希といると、落ち着く……」

 しみじみと言う夏海に、

「わたしも」

 と返して、目を閉じ、しばらくのあいだ、じっとしていた。

 夏海の傷跡は、わたしの傷跡。

 蝉の声がまた、辺りに響き渡り始めた。