夏から秋にかけて集めてきた保存食が、ほとんどなくなった。えさが見あたらないこの一帯から、動物たちも逃げ出し始めた。その動物たちを追う一泊しての遠征が増え、蛇腹も同行していたが、成果は思わしくなかった。

 しばらくめぼしい移住先を探していた名人が帰ってきて、おばあと男衆、おばあと婦人会の話し合いが何度も重ねられた。次の場所の目星はついた、とおばあは言った。いよいよこの一帯から離れるという話が現実味を帯びてこようとしていた。

 

 動けば動くほど必要な食べ物が増える。話し合いが重ねられる中で、猟以外のときは不動の家にこもることが増えた。川の水でふくれた空き腹《はら》を抱えたまま、できるだけ動かずじっとしている。

 寝ころがっている不動のおなかに、黒犬があごを載せて眠っている。不動がときどき鼻歌をやり、蛇腹はてきとうな歌詞をつける。一緒に歌う。不動のために作った木の背もたれを使いながらときどき態勢を変えてやる。そのたび、不動の体温で暖を取っている黒犬に不満げな顔で見つめられる。

 三度目に態勢を変えたとき、不動の体を横倒しにした。

「よく言わないのにわかるね」

 呆れたように不動がこぼす。

 脚衣《ズボン》を下げて、不動の手元に尿器を持って行ってやると、彼はかろうじて動く両腕を目いっぱいに使って、用を足した。尿の入った土器を不動の手からとって脇によけ、今度は脚衣《ズボン》を上げるのを手伝う。

 用を足すときと足したあと、彼は決まって少し、不機嫌になる。黒犬もそのあいだはなんとなく不動を避ける。用の足し方というのは、子供が大人になる過程で真っ先にしつけられることのひとつだから、それを手伝われるのが嫌だというのは、なんとなくだけれど、わかる気もする。中身を捨ててくるのはあとで自分がするときにしようと思って、尿の入った器は家の隅に置いた。不動の反対側に座り直す。それから不動は目を閉じて、じっとしていた。

 自分でもどうにもできないらしい不機嫌が落ち着いたころ、不動が身じろぎした。蛇腹はそれ見て立ち上がり、また背もたれの位置を変えてやった。炉に対して横向きに、足をまっすぐ伸ばしたかっこうになる。すぐ右側にある木箱をつかんで、たどたどしい動きで、膝の上に乗せる。鹿の絵が彫られたその木箱は、蛇腹が贈ったものだ。その代わりに、というわけでもないのだろうけれど、手の麻痺が和《やわ》らいでから、不動は木箱に納めた材料で、首飾りをつくってくれている。蛇腹の首にかかっているのは、すべて不動のものだ。不動の指先ではあまり凝ったものは作れない。集落の人々が不動のためにもってくる、にぶく光るきれいな石や、かたちのととのった貝殻を、重ねて太くした織り糸に通すという単純なかたち。

 それでも蛇腹はうれしかった。自分のために、思うようにいかない両腕を必死に動かしている不動が好きだった。

 最初のころは見られているとやりにくい、と怒っていたけれど、蛇腹が取り合わないとわかると、あきらめて、開き直っている。

 うまく入らなくて部屋の中に転がってしまった時も、「取って」と子供のように言い捨てて、待っている。

「はい」

 手渡すと、

「ありがとう」

 にっこり笑いかけてきて、また手元に視線を落とす。

 彼の笑顔に、蛇腹はいつも自分のなかの何かが満たされていくのを感じる。

 自分を、他の人が生きていくためのお荷物と思い込んでいる――しかもそれは多くの人間にとっては真実かもしれない――不動には、同情以上の響きを与えられないらしい言葉を、蛇腹は今日もまた呑み込んだ。

『本当にすまないが、飯を食って子供を眺めることしかできねえやつにまで、配る余裕はねえんだ。どうしてもっていうなら、あんたらの取り分からわけてやってくれ』

 昨日の獲物の分配で目の当たりにした光景が、取り分を減らした空腹よりもずっと重く、のしかかってきていた。

 

 珍しく気温の上がった日中、名人は毛皮の服を脱ぎ、川の水しぶきの意匠《いしょう》を縫った服でみんなの前に立った。彼は自分よりも先に生まれた人間も聞き手に多くいる中で、特に緊張した様子もなく、じっと立っている。

 人が集まりきるまで、名人の両頬の入れ墨、ななめ四角の中にある目のような二重丸をぼんやり眺めていた。

 そして全員が揃ったところで、

「ここを捨てます」

 名人は端的に結論を告げた。

 小さなどよめきすらも起きなかった。

 すべての作業を中止して、全員が集められる理由は、ひとつしかない。みんな、ついにそのときが来たのだと受け入れていた。

 幼すぎる子供たちだけがよく理解していなくて、名人の言葉をなぞって「捨てる?」「捨てるってなに?」などと、母親に問いかけている。

「さんざん話し合いをしたし、一部には舟や資材を運びこんでもらいました。これから俺たちは別の土地で……湖のそばで生きていくことになります。だいぶ内陸だから他の土地の連中とも競合しないはずだし、川ともつながっていて、水もきれいです。周りは動物たちが住み着く森が広がってます。もちろん今より生活がよくなるなんてことはないですが、生きていくには十分な環境のはずです」

「あたしも賛成する。ここで生きることにこだわり続ければ、もうあたしらは長くないだろう。向こうへ行くなら必ず生き延びられる」

「名人とおばあが言うなら、間違いねえ。今日明日で荷物の整理は済ませて、明後日の陽が昇る前、新天地に出発だ。不安も大きいだろうが、みんなで力を合わせて乗り越えよう!」

 正式な男衆のまとめ役『籠職人《かご》』がそう声を上げると、幼い子供以外のみんなが首を縦に振った。

 蛇腹は無視した。こいつの言う「みんな」に不動は入っていない。

 旅立つ朝――というよりも深夜。

 移動する全員が生まれてからこれまで過ごしてきた大切な場所は、闇に覆われてほとんど何も見えない。そのほうがいいのかもしれなかった。

 合わせて二十七人、手に手にたいまつを持った避難者の列が、雑木林を抜けていく。先頭は籠職人《かご》に水牢《すいろう》、その他の女たちが歩き、列の半ばに男衆、黒犬。不動を背負った不動の父もそこだ。落伍者を見落とせない最後尾に、名人と蛇腹がついた。

 たいまつを持った蛇腹は、やや気持ちをゆるめて歩いていた。これだけの人数で話しながら動いていれば、獣もそうそう近づいてこない。全部任せておける名人が左隣にいるのも大きかった。

 けれど名人のほうは、いつものようにしてはいられないようだった。空が白み始めて浮かんできた彼の横顔は、とても白かった。

「ちょっと名人、大丈夫?」

 火を消した棒を右手に持ったまま、小声で話しかけると、

「だめかもしれない」

「体調が悪い?」

「いや」

 ためらいの間を十歩ぶんほど空けて、

「移動して、さらに食えなくなったら、なんて考えるとどうしてもな」

「意外。名人でもそういうこと考えるんだ」

「お前は俺をなんだと」

「狩りのときは自信の塊で、俺の言うことだけ聞いとけって感じなのに」

「そりゃ狩りはな。みんなを食わせてやるのはまた違う」

「大丈夫だよ。きっとうまくいくって。わたしも手伝うし」

「手伝うって、具体的には?」

「うーん。狩りの手伝いと、相談相手になる」

「それだけかよ」

「食事作ってあげよっか?」

「どうせ不動のついでだろ」

 名人は声を落とした。

「荒事《あらごと》に付き合える女なんて、ここらじゃお前か水牢《すいろう》しかいないんだ。俺はお前を妻に迎えたい。今も気持ちは変わってない」

「わたしの答えも変わってない」

「少しは迷えよ。冷たい女……」

 名人が恨み半分、冗談半分といった調子でつぶやく。

「水牢じゃだめなの?」

「あいつは狩り以外興味ないから」

「あー……」

 強く否定できずに、笑ってごまかす。名人も笑う。

「暇さえあれば変な罠考え出して、これ試せ、あれ試せってうるさい」

「気が合ってるじゃない」

「合ってねえよ」

 狩りに行けるときは名人といつも一緒だし、話も弾む。沈黙が続く不動との時間とは真逆だ。

 それなのにどうして名人の提案を受け入れられないんだろう。自分でもよくわからない。

 同情、と不動なら言うだろうか。

「うるせえんだよさっきから!」

 何か口を開こうとしていた名人が、眉根を寄せる。

「何か前のほうで」

 名人が言い終える前に、蛇腹は棒を放って走り出していた。

 駆けつけると、人だかりができていた。

 男が鋭い剣幕で、父の背中にある不動を睨みつけていた。

「お前はいいご身分だよ。俺たちみたいに、危険を冒して狩りに出る必要もねえ、今度の移動だって、みんなが大変な思いをしてるのに、ただ背負われてるだけだ! 移動先でも、オヤジがお前の食いもんを稼いでくれるだろうよ。お前のこと、俺たちが陰でなんて言ってるか教」

「僕は! 僕だって!」

 ほとんど怒ったことのない不動が、男の言葉をさえぎって声を荒げた。いきなり怒鳴って喉に唾が絡んだのか、むせる。男を仲間たちがなだめ、耐えていたが振り返って突進しようとした不動の父親を水牢たちがどうにか抑える。不動の父親と男との距離が開いていく。むせ続ける不動はそれでも、言葉で相手を殴りつけたそうに、真っ赤な顔を男のほうに向け続けていた。