熊の肉のあまりの重さに大汗をかいてしまい、入り込んでくる風の冷たさに震えながら、どうにか日暮れ前には戻ることができた。

 集落の隅で命をいただくための祈りを終えたが――これを済まさないと、分配はできない――、みんな忙しいので、特に反応はなかった。誰も見ていないうちにと、名人は、かなり多めの肉を、蛇腹に分け前としてくれた。熊の肉は滋養にいい。燻製《くんせい》にすれば保存もきくし、これだけあれば、しばらくは不動と黒犬も安心だ。

 蛇腹が、差し出された熊肉の分配を受け取ろうとすると、名人が手を引いた。

「お前もちゃんと食べると約束しろ。不動に全部やったりしないと」

 名人は険しい顔で言った。

「大丈夫だよ。これだけあるんだから」

 笑うと、名人はうなずいて、今度こそ渡してくれた。

 急いで不動の家に向かう。

 不動の家の前についたころ、

「みんな! 俺と蛇腹で熊を仕留めた! 分配するぞ!」

 名人の大声が集落に響いた。

 その夜はずいぶん久しぶりの宴会となった。

 集落中心部の、いつも子供たちが遊んでいる広場で、薪をくべて炎を囲み、みんなそれぞれ、串に刺したみずからの取り分を焼く。婦人会が作った酒も少量ふるまわれ、ほろ酔い気分が場を包んでいる。

 蛇腹は三つに切って刺しておいた熊肉の串を焼き、頃合いを見計らって取りに行き、背もたれに寄りかかる不動の右隣に戻った。

 まず一口かじる。きちんと下ごしらえしたのだけれど、焼いた熊肉はやっぱりちょっと硬い。それでも久しぶりの大ぶりな肉の味が舌の上に広がると、何とも言えない喜びがわきあがってきた。

「おいしい……」

 なんだか泣けてくるほどにおいしい。

「ほら不動も」

 不動の右手を両手でしっかり包んで、串をにぎらせる。

 不動のあたたかな右手を自由にすると、串を持ったその手がゆっくり動き始めた。いびつな動きで、ときおりがたがたと揺れて串を取り落としそうになりながら、それでもどうにか、口へとたどり着かせた。歯を熊肉に食い込ませ、引きちぎるように串を引っ張る。

「熊肉って、味はいいけど硬くて苦手なんだよなあ」

 大きく顎を動かしながら、もごもごと不動が言った。

 蛇腹は炎のほうを見つめながら、

「文句言わずに食べなさいよ、ごちそうだよ」

 みんながそれぞれ焼けた串を食べはじめ、あっという間に食べ終えた男衆の一部が、酔いを前面に出して踊り始めた。みんなは楽しそうに手拍子をして、はやし立てている。

 蛇腹と不動は黙って、その様子を眺めていた。やがて不動の腕が動き出す気配がしたので、視線を戻す。

 さっきよりは少しなめらかな動きで、串に刺さった最後のひとかけらを口元へ運び、横からかじる。

 かじったところで、なぜか不動は、固まった。

 そして小さく肩を震わせ始める。それはやがて、大きな震えになっていった。

「どっ……どうしたの? 大丈夫?」

 慌てて肩に手を添えて訊《き》くと、串を持った手はそのままで、肉をかじった状態もそのままで、不動は何度もうなずいた。

 暗がりでよく見えないが、小さく聞こえてきた嗚咽で、ようやく不動が泣いているのだと気づいた。

 うぐ、と嗚咽を無理やり閉じ込めたうめき声の後、不動は、食いしばっていた熊肉からようやく口を離し、

「ありがとう。ありがとう、蛇腹」

 涙声をしぼりだした。

「僕は、僕はね、蛇腹。こんな状況になってからずっと、みんなの役に立てないから、早く死にたいと思ってたんだ。僕が死んだらみんなの取り分がふえるし、父さんや母さんや蛇腹にも、負担にならないで済むからって」

 ぎこちない動きで、不動が左手の甲を目もとに持っていく。

 乱雑に何かをぬぐい、

「でも僕、衰弱してから――ううん。違う。今朝蛇腹が抱きしめてくれたとき、蛇腹のあったかさが背中から伝わってきて、気づいたんだ。本当は僕も死にたくなんかないんだって。みんなに迷惑がられても、もっとずっと、生きていたいんだって」

 不動につられて、自分の目元からも何かが零れ落ちた。

 急に出てきた鼻水をすすって、不動から目をそらす。不動と同じように、手の甲で乱雑に目元をぬぐった。

 そしてもう一度、不動の横顔を見つめる。

「わたしは不動に、死んでほしくないよ。昔からずっとそう。ほんとにずっと。抱きしめたくらいでそう思えるなら、いくらでもしてあげる」

「うぬぼれたことを言ってもいいかな」

「いいよ。何でも言って」

「蛇腹は、僕のために、無茶をして、これをとってきてくれたんだよね」

 蛇腹は少し迷って、静かに頷く。

「もうそんな無茶はしないで……って言えればかっこいいんだけど。蛇腹が僕のために何かをしてくれること、それが僕は、本当にいつも、本当にうれしいんだ。でも、いくら言葉にしたって、伝わる気がしないから。だから……その。また首飾りを贈らせてほしい」

 不動は、近くの草の上に串を置いた。代わりに草の上から首飾りを取り出した。淡い緑の丸石と、顔料で赤く塗った猪の牙が交互に並んでいる。白を基調としたこれまでにない配色のものだった。

「緑はね、やっぱり春の色だから、無事に春を迎えられるように。それで、赤は、僕が思ってる蛇腹の色。赤は、血の色で、そのまま、いのちの色なんだ」

 首飾りを愛おしげに撫でながら不動が説明する。

「ありがとう。大事にする」

 けれど蛇腹は、すぐに受け取らなかった。

 渡してこようとしていた不動が、戸惑ったように腕を下げた。

「ねえ、たまには、不動がかけてよ」

 言ってから首を下げてみる。

 少しの間の後、髪に不動の手が触れ、そのまま、下に降りていく。耳や首筋に不動の手と首飾りの冷たさを感じながら、目を閉じる。七つ目の首飾りが、巻きついた。いっそうじゃらじゃらとうるさいだろうけれど、いつも不動を感じていられるその音が、いい。

 

 翌朝、怒鳴り合う声で目が覚めた。

 寒くて動きたくなかったけれど、寝ぼけ眼《まなこ》のまま家から飛び出して声のするほうへ駆けつける。

「きのう、蛇腹に多く分配してたのを、うちの子供が見てたんだ。おおかた、不動のためにと泣きつかれたんだろ?」

 仲裁に入ろうと思っていたが、蛇腹はその言葉を聞いて慌てて足を止め、近くの建築資材置き場へ隠れた。

 自分が出ていったら余計にややこしいことになる。

 そうっとのぞくと、集落北側の入口で、『籠職人《かご》』を筆頭に武装した男たちが六人と、平服《へいふく》の名人が一人、向かい合って話をしている。名人のうしろに、不安げな顔をした女たちが幾人かいる。

「お前が蛇腹を好きなのは勝手だが、分配は公平にするべきだ! だからきょう、俺たちも北の山へ向かう。きょうとったぶんは、蛇腹とあんた、不動たちには分けない」

「俺たちは北の山になんて行ってません!」

「じゃあ聞くが、あの山以外のどこに、熊なんかいるっていうんだ? このあたりはあらかた調べ尽くしたが、熊の痕跡《こんせき》すらなかった!」

「止めたって無駄だぜ、名人。俺たちは独り身のあんたと違って、女を食わせなきゃならねえ。たしかに昨日の分配は豪勢だったが、安心にはまだ足りねえ」

「お前ら、行くぞ!」

 後ろでやりとりを眺めていた籠職人が、他の連中に号令した。

 名人は

「わかった。認めます」

 と、あきらめたように言った。

「確かに俺と蛇腹は、あの山へ行った。分配も、蛇腹に多く渡しました。けどわかってほしい。俺はたしかに蛇腹のことは好きだが、不動のことは好きじゃない。俺は誰かの子が、空腹で死にそうになっていても分配を多くしましたよ。量が足りなかったんなら、俺の分を全部やります! だから、行かないでください」

 名人の必死の呼びかけに、籠職人は足を止めた。振り返って、

「わかった、信じよう」

「おお」

 名人が喜びかけたところで、

「前提以外はな。まず、前提が嘘だ。俺の子が死にかけたとしても、あんたは北の山へは行かなかった。行ったのは、好いた女のためだからだ。あんたにとっての蛇腹が、俺たちにとっては子と女なんだ」

「いい加減聞き分けろよ! あの山は気味が悪い。無事に帰ってこれたのが自分でも不思議なくらいなんだ!」

 名人の口調が厳しいものになる。けれど籠職人はもう、歩き出していた。代わりに別の男たちが応える。

「たしかにあんたの狩りの力はすげえ。だが、俺たちだって経験は積んでる。危険を感じたら、すぐに帰ってくるさ」

「女連れが帰ってこれたんだからな」

「蛇腹はただの女じゃない! 俺と同じぐらいの狩猟勘がある!」

「行った連中が誰も帰ってこないなんて、どいつが言い出した噂か知らねえが、噂がひとり歩きしちまってただけなんだよ」

「心配すんなって、日暮れまでには帰ってくるから」

「待て! 待てよお前ら!」

「力づくで止めてみろよ。弓を持った六人組に、勝てるならな」

 名人は男たちに殴りかかった。

「行くな! 行くんじゃねえ!」

 一人目を殴り倒したところで、振り返った籠職人が素早く弓を構えた。矢もつがえてある。

「本気だ、俺たちは」

 名人は動きを止めた。殴られた男が、名人に仕返しをするでもなく、ただ黙って歩いていく。矢を構えた籠職人が、後ろ向きにじりじりと歩いていく。やがて彼らは、遠く離れていった。