無用の人と、蛇腹のための首飾り

(全6話)

 

 この山の斜面にも白い霜が降りていて、踏みしめるたびに靴の下で小さく鳴く。

 やせこけた猪《しし》にやられて出た情けない欠員の代わりに、久しぶりに狩りについていくことを許された。途中までは喜んでいたけれど、毛皮の靴でもはばみきれない寒さが足元から上がってくるにつれ、後悔しはじめていた。息が切れて足の反応もにぶい。背中に担いだ弓がやたらと重く感じる。手もつま先も顔も喉も胸の奥も、冷たさにかじかんで痛い。

「『蛇腹《じゃばら》』、まだいけるか」

「うん、いける」

 先に斜面を行く『名人』の声には強がっておいた。蛇腹より少し早く生まれただけの名人だけれど、若くしてすでに男衆のまとめ役に近い立ち位置になっている。理由はもちろん、狩りが名前通り抜群にうまいからだ。

「もう少しだ。頑張れ」

「頑張る」

 名人は山中を平地と変わらないように歩く。『蛇腹』の由来になった六本の白い首飾りを毛皮の服の内側でじゃらじゃらと鳴らしながら、落葉を終えた低木に手をかけ足をかけ体を預け、のったらのったらと追う。

 やがて斜面がようやく終わりの気配を見せて、少しだけひらけた平らな場所に出た。ここは獣を追い込むためにみんなで造った場所のうちのひとつだ。名人は小さな出っ張りを足掛かりに、背の高い木の上にするすると登って、担いでいた弓を外した。蛇腹は膝に手をついて息を整えその様子を眺めた。息を整えた後、名人の登った木のふたつ左にある低木に登ろうとして、よく見ず小さな枝をつかんだ。折れそうになったので慌てて手を放し、反対側に回り込んで丈夫な枝をつかみ直して登った。木の皮のそっけなさが手袋越しにも少し痛い。二股にわかれかけた安定する場所に足を置いて立ち、名人と同じように、腰の矢筒から取り出した矢をつがえて、弦に軽く手を添えた。

 しばらく緊張感を保っていたけれど、なかなか獲物が来ないので、あくびをひとつこぼした。この狩り場の向こうはなだらかな斜面になっていて、右手も左手も崖になっている。弓で仕留めても、そっちに追い込んで落としてもいい。場所によっては落とし穴もありだが、子供まで殺してしまう可能性がある。子供は見逃してやるのが狩りの掟だ。

 木の上に立つと見える正面遠くには、硬く閉じて人の侵入を拒む冬山がそびえたっている。あそこには冬眠している熊がたくさんいるらしいけれど、人間も無事では済まない。手に余る。

 捕れない獲物に思いをはせるのをやめて、隣の木を何気なく見やると、毛のふくらんだ小鳥たちが寒さをわかちあうようにして寄り集まっている。何も落ちていないはずの地面を必死につついている連中もいて、自分たちの姿がなんとなく重なった。名人は何をしているのかと思って目をやると、一瞬、見つけられなかった。焦ってよく目を凝らすと、名人は全体に木の皮を貼りつけた自作の外套《がいとう》を頭からかぶっていた。名人の名人たるゆえんだけれど、擬態までうまい。

 荒々しい叫び声が遠くから聞こえてきて、蛇腹はもう一度身を入れ直した。

 なんでもいい。とにかくなにか来い。食えるもの。『不動』の血肉になるもの。

 男たちの怒声と殺気に追い立てられた獣が二頭、駆けるというより、はねるようにしてやってくる。つがえた矢を引き絞るための間をはかる。射程範囲に来るまで、みじろぎひとつ許されない。高まる鼓動を押し静めていると、獣たちの姿がはっきりと見えた。

 とたん、蛇腹は心の中で舌打ちした。おそらく名人も。

 小さすぎる。子供じゃないか。

 うちの集落は、掟の拘束力が他の集落よりもゆるい。それでも子殺しは避けなければならない。失意のままつがえた矢を戻し、弓を肩に担ぎ直した。仔鹿が、名人と自分のいる木の下を走り抜けていく。地面をつついていた小鳥たちが驚いて、いっせいに飛び立った。

 

「だってよお、今年の冬はいやに厳しいからよ、山の神さんも許してくださるて、コイツが」

「お前も頷いてたじゃねえか」

「子をとって困るのは結局俺たちですよ」

 昼を過ぎ、下山の時間になった。改めて名人に今日の不始末を叱られている追い込み役の男たちを横目に、蛇腹は山を下り始めた。収穫は、雪に埋もれる前の白兎が五匹と狸一匹。名人三匹、蛇腹二匹、他の男たちが合わせて一匹。この量では不動まで行き渡っても、大した量にならない。

 ……あいつに、この冬を越させられてやれるのかな。

 村に帰ると、川釣りに行っていた連中の収穫もたいしたことがなかった。その日一日、集落全体でどうにか食いつなげるだけの量しかない。

 獲物の解体と獲物への祈りの儀式、収穫物の分配を終えて、一度家に帰って荷物を置いた。それから不動のもとに向かった。

 不動は村の中心の広場、木で作られた猪の像近くに寄せられた、特別製の背もたれにだらりと背中を預けていた。彼は子供たちが狼ごっこで遊ぶ様子を眺めていた。猟師《りょうし》役の子供がやたらと大きく描いた円の外に立ち、狼役の子供から、円の中心に置いた獲物(骨)を守らなければいけない遊びだ。広場には平らな場所とゆるやかな傾斜の小さな丘、登って遊べる大樹、遊び道具を入れておき雨の日の遊び場になる簡素なぼろ小屋があって、子供たちはたいていここに放っておく。

 蛇腹が近づくと、不動のかたわらに眠っていた『黒犬』が顔を上げて、とがった耳をぴんと立たせた。尻尾を振りながら立ち上がり、駆け寄ってくる。きょうは朝から元気がなかったので休養日だったが、休養日はいつも不動のそばにいる。こいつは不動が大好きなのだ。よく不動と一緒にいる蛇腹にも少しだけかわいげを見せる。

「おかえり」

 ぎこちないなりに動きかせる上半身を少しだけこちらへ向けて、不動が言う。

「ただいま」

「楽しかった? 久しぶりの猟は」

 集中しなければ何を言ってるか聞き取れないような小さな声。

 蛇腹は小さく首を横に振った。

「だめ。動物がぜんぜんいない」

 不動は、きゃーきゃー言いながら走り回る子供たちのほうへ視線を戻した。

「それは困ったね」

「うん」

 不動が黙り込む。

 沈黙の意味が、考えなくても分かる。

 ――僕も動ければいいのに。

 幼いころ、彼の両足と両手に突然、原因のよくわからない麻痺が起こり始めた。

 おばあは、どこかで恨みを買って、何かが憑いたのだろうと言っていたけれど、彼の両親や彼自身の素行に、それらしい理由は見つからなかった。むしろ集落のため危険な猟《りょう》にもいどみ、狩った動物たちに対しても熱心に祈りを捧《ささ》げ弔《とむら》ってきた、善き人々だというのが彼の両親の集落の中での評価だった。

 毎日いっしょに遊んできたのに、自分たち子どもは彼に憑いたものから次の標的にされぬよう、引き離された。引き離されてしばらく経ち、どうやらもうこれ以上麻痺が広まらないらしいとなって、「会ってよし」になった。

 みんなでお見舞いがてら駆け付けると、このあいだまで一緒に狼ごっこをしていた彼の足は細い棒きれのようになっていた。誰もかれもが気味悪がって近づかず、自分も彼に近づく決心がなかなかできなかったが、なぜか帰ることもできず、ただ不動の家の入口に立ち尽くしていた。そのあいだ、彼の母親が、立ち尽くす蛇腹を気にした様子もなく、ただ黙って彼の体を濡らした麻布で拭いてやっていて、その光景がなんだか今でも目に焼きついている。

 蛇腹は、黒字に赤い楕円《だえん》の連続模様がついたヘアバンドを下にずらして肩へ落とし、首飾りに重ねた。不動の右にある、毛皮で覆《おお》われたかごを指差す。かごは前面がすっぱり切られていて、手で掴める棒がふたつ、切断面に沿って縦に伸びている。

「家戻る?」

「うん。お願いします」

 不動は、麻痺が残りながらもどうにか動く両腕をぶるぶると震わせながら、体を引きずって体勢を変え、かごに背中を向けた。蛇腹は正面に回って、同い年とは思えないほど小さな――それでいて確かに生きている重みと温かみのある体を抱きかかえ、かごにゆっくりと乗せた。不動が腕を二本の棒にからめて、準備は終わり。腰にかかる負担を分散するため、かごに備えつけられた布の輪っかを額に当てて、きちんと伸びきるまで頭を前に引っ張り、取っ手を肩に回す。腰を痛めないよう気を付けながら立ち上がる。重さを特に感じるのは最初の持ち上げるときだけで、あとはそこまでじゃない。額に当てた布の輪っかを外し、前傾姿勢を意識しながら歩き出す。

 黒犬が先導するように、お尻を振りながら行く。ときどきこちらを見てうぉんうぉんと吠え、蛇腹はそれに微笑みを返す。

 背中で、不動が鼻歌を歌い出した。

 ときどき、不動は自分で適当に歌を作る。

「歌詞はないの?」

 蛇腹が訊くと、

「あーしたーは 猪《しし》がとれるといーいなー」

 考えなしの歌詞がついて、蛇腹は笑った。

「適当すぎ」

「僕は歌詞担当じゃないんだよ。蛇腹が考えてよ」

「あーしたーは 猪がとれるといーいなー」

 蛇腹は口ずさみながら歩いた。

 不動は足が動かなくなってから、子供を見守る役目が与えられたので、両親ともども広場の近くの家に引っ越した。すぐに着く。

 冬だけ入口にかけられる毛皮をめくって

「こんばんは」

 段差で転ばないように気を付けながら、家の中へ降りる。火の入った炉《ろ》に照らされた部屋はぼんやりと明るく、炉端《ろばた》を雑然と取り巻く大小の土器の影がうっすらと浮かんでいる。炉の近くを避けて敷き詰められたわらの上に、さらに長方形の布が三人分、敷いてある。そのうちのひとつに座って火かき棒で炭をいじっていた不動の母親は、

「こんばんは、蛇腹も不動もごくろうさま」

 と優しく言って迎えてくれた。

 不動の乗ったかごをゆっくりとおろした蛇腹は、また不動を抱きかかえてかごから降ろし、不動の母の正面の布の上に寝かせた。頭上の余ったスペースに膝を抱えて座り、炉に手をかざす。熱がじんわりと手にしみわたっていく。

「あら。指先が真っ赤じゃないの。ちゃんと手袋はしていった?」

「してましたよ、毛皮の。でもやっぱり、冬の山は寒いですから」

「欠員が出たからって、わざわざ女のあなたが行かなくてもいいのに」

「何言ってるんですか。きょうだって、兎と狸を一匹ずつとったんですよ。名人と一匹差ですよ!」

「すごいね、それは」

 寝たまま、不動が褒めてくれる。

「もっと大げさに褒めてもいいよ」

 得意になったのもつかの間、

「蛇腹なら、名人の目にもかなってると思うけどな」

 と言ってきた。怒りがわきかけたが、この話をされるのはさすがにもう慣れた。

 火かき棒を砂に差して、不動の母が立ち上がった。かわりに火ばさみをとって、火種をつかむ。外の炊事場に行くのだろう、蛇腹も立ち上がった。水瓶に土器を入れて適量をすくい、抱えて、不動の母の後へ続いた。

 外で待っていた黒犬がしっぽをふりながらまとわりついてくるので、足で軽く相手をしつつ押しやる。石組みされた炉の上に、土器を載せる。

「きょうの婦人会では何かでてました?」

 しゃがんで、地面に仰向けになった黒犬の首もとを軽く掻きながら、訊ねる。

「いいえ何も。結局、だましだまし、食べる量を切り詰めるほかないからね。きょうも煮汁を増やしてごまかすけど、いつまで続くやら」

「ここを捨てる話については?」

「みんな避けてる。もちろんわたしも。愛着もあるし、他の場所に行くといってもめぼしいところは他の集落に押さえられているし。そう簡単には決められない」

「そうですね……あのおばあすら、ここで産まれたって話してますもんね」

 外の炉にも火が点《つ》き、土器の水に少しずつ水泡が出だす。

 だんだん陽が落ちてくる。そろそろ、男衆の話し合いに参加していた不動の父が分配を持ってくるころだろう。

「わたし、頑張ります。わたしがみんなの役に立てるのは、やっぱり、狩りだと思うから……。わたしと水牢《すいろう》が、山と川とで捕りまくります」

 そうすれば、誰も悲しまずに済む。

 黒犬のあたたかな毛にじっと手をうずめていたら、頭に、不動の母の手がのせられた。

「期待しておくね」