蛇腹はいつの間にか、不動の家で、不動と隣り合ってわらの上で眠っていた。

 今の今まで湖畔《こはん》で釣りをしていたはずで、状況がよくわからず、体を動かそうとするが動かない。

 すると入口のほうから、何かが入ってくる気配がした。確かめようがないから、仕方なく耳をそばだてていると、聞こえてきたのは獣の息遣いだった。黒犬か、と思って安堵しかけたが、視界に入ってきたのは狼の姿だった。狼は何匹も何匹も入ってくる。そして、同じように動けない不動の体を取り囲み、食べ始めた。生きたままの不動が、絶叫を上げ続ける。必死に体を動かそうとするが、何もできない。

 やがて、不動を喰らいつくした狼たちはこちらにやってきた。無数の黒い目が、向けられている。やがて、一頭が首筋に喰らいついてきた。牙が喉もと深くに刺さり、引きちぎろうと、ぐい、ぐいと顔を動かす。声を上げたいのに、喉がもう潰れてしまっている。やがて、首もとから何かちぎり取られていった。涙と鼻水が自分の意思とは関係なくあふれる。次は、脇腹。次は、右足の太もも、次は……次は。

 むさぼり尽くされたはずの腹に、強烈な違和感を覚えた。何があってもこれだけは絶対に取り除かなければいけないという、強烈な、違和感。ようやく呪縛の解けた右手を動かし、腹に突っ込む。

 手に取ると、血まみれの何かがそこにはあった。かすれた目を必死に見開いて見ると、それは、恨みがましそうな目を向けてくる、未熟な熊の嬰児《みどりご》だった。

 

 体ががくっとなって、蛇腹は目覚めた。足元には無意識につかんだままの釣り竿があって、急いで右隣りを見ると、不動が草の上に寝転んで晴れ渡る空を眺めていた。

 激しい鼓動を伝えてくる左胸をおさえて、ゆっくり息を吐く。ここ最近よく見る夢なのに、夢が始まると、初めて体験する現実のようにしか感じられず、終わるまで何もできない。

「どうしたの?」

 不動が頭だけを動かした。半ば枯れ草に埋もれている。

「居眠りしてた。ぜんぜん釣れないし、ちょっとほっとく」

 釣竿のつけ根の部分に重しの石を置き、立ち上がる。

 それから、仰向けの不動に手をかける。

「いつものやってあげる?」

「いつもいきなりだよね。でも、お願いします」

 不動を転がし、うつぶせにした。横に座って、背中の動かしにくい部分に手を当て、体重をのせて優しく揉んでいった。

「だいぶ凝《こ》ってたね」

「いてっ」

「あ、ごめん」

「大丈夫」

「次は脚《あし》ー」

「うん」

「脚のほうは腕みたいにいかないか」

「高望みはしてないよ」

 足首の当たりをつかんで膝から下を曲げてから下ろし、曲げてから下ろししてみる。かすかな力の気配も伝わってこない。ただ蛇腹の力にしたがって動いているだけだ。足はもう二度と動かないだろう。それでも不動の体の一部には違いない。脚衣《ズボン》ごしに感じるふくらはぎや裏腿《うらもも》のかすかな肉づきを、しっかりと指先に押しつけた。

 体を揉んでいくのを終えてから、蛇腹は自分の体もゆっくり横たえた。そして態勢をずらし、後頭部を、不動の背中に載せる。水のような空は寒さに澄み切ってあまりにもきれいで、陽光のかがやきすら添えもののように見える。

 いつも同じ場所を占領している黒犬は名人たちと猟に出ている。猟と言っても狩場はこの集落の周辺で、もちろん北の山ではない。あの山には自分たちの生きている限り、もう二度と足を踏み入れることはないだろう。

 男が一気に六人も減ってしまったが、いままで女では水牢と蛇腹しかしたことのなかった狩りを女たちも手伝うことによって、どうにか生活を保てている。陸上の狩りにいそしむ男たちに代わり、水辺での狩りは自然と水牢が預かることになった。責任ある立場を与えられた水牢ががぜんやる気を出して若い女たちを厳しく指導し、水辺での狩りの収穫量が増えたことも、集落が生きながらえている一因だ。自由にふるまってもなぜか憎まれない水牢だからできるやり方だろう。

 蛇腹は、日によって参加する狩りを変えている。別に気まぐれというわけではなく、不動の父母の仕事との兼ね合いの問題だ。集落のみんなにも同意をもらっている。きょうは父母の両方ともが手を離せないので、かわりに蛇腹が一緒にいる。一緒にいられる。

「そろそろ起こしてくれないかな。手がぴりぴりしてきた」

 両腕を敷いてうつぶせになっている不動が、耐えかねたように言ってくる。

「嫌って言ったら?」

「自分で起きる」

 不動は肘でも使ったのか、自分で体を回転させた。不動にゆっくり振り落とされ、草むらに頭が沈んだ。

「ひどい」

 ここまで、どうにか腕が動くようになった。蛇腹は言葉とは逆に笑って、左横を向いた。目の前の草が、不動の左手を包みこむように潰れている。なんとなく見つめていたら、手が動いた。指が当たりそうな気がして目を閉じる。するとなんだかまぶたの向こうの陽の光がさえぎられて暗くなったので、また目を開く。左肘を支えに上体を起こした不動が、右手を伸ばしてくるところだった。

 不動の震える右手が、蛇腹の前髪に触れては離れ、触れては離れる。どうにか震えが落ち着いたころ、それが、頭の後ろへ流れていく。

 前、から、後ろ。前、から、後ろ。

「蛇腹の髪、初めてきちんと触った」

 顔が逆光でよく見えない。見えないのに声の調子だけで表情がわかる。

「次の首飾りは、黒がいいな。蛇腹の、やさしい髪の色」

 体の芯から、痺れるような何かが吐き出されていく。なぜだかわからない。わからないけれど、北の山で山の視線に射すくめられたときよりも、狼に追い詰められて死にかけたときよりも、呪いのような夢にうなされたさっきよりも……ずっと、ぞくぞくした。

 

 

 

 

(終わり)



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