すぐに追いかけようとした名人だったが、おばあがそれを止めた。

 男衆のまとめ役の籠職人《かご》がいないのなら、名人が集落に残っていなければ、何かあったとき対応できない、と説得されて。

 不動を悪者にしてきた連中だったから、どうなろうとかまわない、と思えれば楽だったのだけれど。やはりそれを心配する妻や子を見ていると、そんなふうには思えなかった。まして彼らは、妻や子を養うために、危険を承知で狩りへ向かったのだ。熊肉で一時的に改善したけれど、貯蔵が空で、まだまだ食料は足りていない。とにかく何か獲物をとり続けなければならない。理はある。

 水牢《すいろう》だけはふだん通りで、集落のごたごたを興味がなさそうに聞き流すと、不安げな女たちをつれて湖上での釣りに向かった。舟は前の集落から事前に運んでおいたものだ。四|艘《そう》ある。蛇腹《じゃばら》も釣りのほうを手伝ったが、昼過ぎになって、村中に、かがり火の木組みを増やすように指示が出た。

 そして日が暮れても、男たちは帰ってこなかった。

 村中のかがり火がつけられて、夜なのにこうこうと明るく照っている。火をつける作業の中、集落のもっとも北側の資材置き場に詰めている名人と男たちから、水牢と蛇腹も、武装したうえで来るように言われた。

 弓を背中に、槍を右手に。いつもの装備で向かうと、資材置き場も火で明るかった。角材の上に座る名人からはだいぶ離れて男衆が三人、それぞれ立っていて、戦闘態勢をとりながら別々の方向を警戒している。集落全員で男が十五人で、女が十二。女では蛇腹と水牢だけが例外なので、不動と男児ふたりを除けば、戦えるのはここにいる六人と、最後の最後に女たちの盾となる役で残った不動の父だけだ。

「水牢、お前、今回のことどこまで知ってる?」

 名人がまず水牢に話を向けた。

 水牢は小さな円状の耳飾りを右手の人差し指で軽く揺らしながら、

「え、わたし? そうねえ。なんかいろいろあって集落が大変そうだなって」

「籠職人に連れられた五人が北の山へ行った」

「おおっ。わたしも行きたかった」

「聞け。そいつらが、日暮れまでには帰ると言って、まだ帰らない。何かが起きたと考えてる」

「何か、ねえ。名人なら見当ついてるはずだけど。全滅したんだよ、馬鹿な連中」

「てめえ!」

「わたしに感傷は期待しないでもらえる? わたしが興味あるのは獲物と蛇腹とあんただけだから」

 男と同じくらい背たけのある水牢が、無理やり肩を抱いてきた。めんどうなので、されるがままに頭も撫でられておく。

「舟の準備しとくよ、何かあっても湖の上なら安心だし」

「夜の水辺は危ない」

「だから何か動きがあったと思ったらみんなを舟に乗せる。事故の可能性より迫った身の危険。いい?」

「一度切り替えると早いんだよな、お前は」

「なーんか馬鹿にされてる気がするなあ。まあいいや。すぐ取り掛かるね。もしものときの援護も用意しといてあげる」

「あっ」

 水牢のまくしたてるしゃべりについていけていなかった蛇腹は、そこでようやく追いつき、声を上げた。

 すると水牢はうなずきかけてきた。

「あんたの男もちゃんと連れてくから、安心して!」

 暴風が過ぎ去ったあと、残された名人と蛇腹は、なんとなく気まずくなった。

 ……余計な言い方を。

 ため息をついたあと、

「ごめんなさい、名人。分配の量のせいで、こんなことになって」

 北の山の方角をじっと睨む名人に、謝った。

「俺は後悔してない。お前に……不動に肉を多くわけてやったこと。気に食わねんだ。生きてる意味がどうだの言い出す連中がよ。意味なんかねえ。生きてるから生きてるんだっての。馬鹿が」

 今朝、仲間の一人を殴りつけた右の拳をさすりながら、名人が吐き捨てた。いつもよりずっと口が悪い。

「もちろんお前を独占しとる不動も好かんけどな」

 苛立ちにまみれた両脚が小刻みに震えている。

 蛇腹は最後の一言には応えず、

「そろそろわたしたちも、警戒しようか」

「ああ」

 名人は立ち上がり、角材の上に立った。

「わたしのせいじゃないなら、名人のせいでもないから」

「どうかな。射《い》られても、止めるべきだった」

 後悔を漏らした名人から離れて、集落入口の左側にいる男と、正面にいる男の中間地点に立った。

 月は厚い雲の向こうに隠れ、冷たい風が頬や目元を切っていく。火の届かない暗闇の向こうで、いったい何が起きているのか。水牢は全滅と言った。名人も怒ったが否定はしなかった。それよりももっとひどい、最悪の事態がある。このあたりで、肉を食う動物は熊だけじゃない。この集落の人間と同じようにお腹を空かせた、あの連中がいる。水牢はそれに備えている。

 狼は、代々語られる恐ろしさとは裏腹に臆病《おくびょう》なところがあり、集団生活する人間を襲うことはほとんどない。けれど縄張りを侵《おか》した外敵には容赦《ようしゃ》がない。蛇腹と名人が行ったときは、たまたま、狼の縄張りを侵さなかっただけなのだ。空腹の限界を迎えた群れ、さらに一度人の肉を食らってその耐えがたい空腹を満たした群れも、おそらく襲うことにためらわなくなる。

 前の集落ならともかく、今は北の山からはそう遠く離れていないのもまずい。

 もし、狼から逃げて――。

 ――何か音がした。

 衣擦れの音。地面を蹴る音。

 狼は常に全速力で走るわけじゃない。ずっと走り続けられる体力もない。あきらめも早い。隠れながら逃げれば、仲間を犠牲に逃げ延びることのできる幸運な人間だって、いる。

 けれど群れの頭数が大きなものだった場合、満たすべき胃袋も、当然大きくなる。あきらめも悪くなる。

「たすけてくれ!」

 息を切らした籠職人《かご》が、悲鳴との境のない声を上げた。

「いっ……射るな!」

 名人は、非情な決断を下すことに、一瞬、ためらった。

 そのためらいで、他の男三人はすでに、籠職人を襲わんとする狼たちに向かって矢を放ってしまっていた。

 火がたかれているとはいえ、この暗がりで、動く狼に当てることは難しい。それなのにひとつが、奇跡的に当たった。狼から低い悲鳴が漏れた。

 狼の群れを、攻撃、してしまった。

「走れ、湖へ」

 名人は必要以上に大きな声を出さず、聞こえるか聞こえないかの声量で男たちに伝えた。

 男たちはためらいの視線を籠職人に向けていたが、彼が狼の群れに飲み込まれて絶叫すると、あきらめて走り出した。

 それなのに名人は、走り出すどころか、弓を構えた。放つ。一頭に当たった。狼の一部の注意が、名人に向く。けれどそれでも、注意をそらしきれなかった。本能なのか、群れの一部が名人やこちらには目もくれず、逃げる獲物に――湖のほうへ走る男たちのほうへ――向かおうとする。

 水牢たちはおそらくまだ異変を知らず、舟に乗る準備はできていない。

 腹のあたりから熱が出た。人差し指と親指を口に突っ込んだ。めいっぱいの指笛を吹く。

 狼たちの視線が、殺気が、集まる。

 蛇腹は走り出した。

「馬鹿野郎!」

 名人の声が蛇腹を追ってきた。振り向くと、彼は後ろ向きに走りながら射かけるという離れ業で、一頭、二頭と仕留めていた。しかしこの群れは予想以上に頭数が多い。まだ、十数頭いる。

 狼の荒い息遣いが、すぐ後ろから聞こえる気がする。槍を持った手も、足も、全力で動かし、逃れようと走る。途中、村に配されたかがり火を槍でついて倒していって、少しでも距離を稼ぐ。けれど足の限界がすぐに訪れかけていた。名人の矢も当たらなくなり、名人は弓を狼に向かって投げつけた。蛇腹も投げつけたが焼け石に水で、ぶつかった狼の横から、別の狼が飛び出してくる。

 右手の槍をななめにぶんぶん振って、狼がすぐ背後に来たら頭に当たるように走った。何度も何度も狼の頭の感触があって、悲鳴を上げたかったが、悲鳴すらも惜しがる身体が、ただ息の出入りしか許してくれない。

 不動からもらった七つの首飾りが、服のうちで激しく暴れまわる。その音が聞こえる限り、あきらめるつもりはなかった。

「跳べ!」

 突然、水牢の声が響く。

 左手が川、右手が崖になっている隘路《あいろ》に、何かが置かれていた。名人と蛇腹は手にもつ槍を放り出し、腹くらいの高さのそれを、前転するように跳び越える。すると、がたがたがた、飛び越えた舟に何かがぶつかっていく音が聞こえた。地面を転がりながら振り返ると、横倒しにされていたのは舟で、その上に大量のかがり火が倒れこんでいく。舟が燃え始めて、それでもなおあきらめず跳び越えた一頭が、蛇腹のほうに迫ってきていた。武器はもう手元にない。目を閉じるが、衝撃はやってこなかった。やせこけた黒犬が、狼のどてっぱらにくらいついていた。黒犬は利口だった。すぐに口を離して、逃げたのだ。追おうとする狼の体を何本もの矢が射た。

 荒い呼吸を整えながら、周りを見る。

 目の前では舟一艘と、乱雑に投げつけられたかがり火が絡み合って燃え、隘路をふさいでいる。足元では、黒犬が、ぴょんぴょん跳ねてぶつかってくる。撫でながら、まだ狼が来る可能性のある右手の川に目を向けると、川に飛び込んでまでこちらへ来ようとする狼はいないようだった。先に逃げた男たちが、川に弓を向けて警戒している。どうやら狼を仕留めて黒犬を救ったのは彼らのようで、そのうちのひとりが蛇腹の視線に気づいて、「やったな」とでも言うように、手にした弓を掲げて見せた。

 左に目を向けると、仰向けに倒れ荒い呼吸を繰り返す名人と、彼に近寄る水牢がいた。水牢とともに仕掛けの大部分を手伝ったのは女たちのようで、水牢が歩き出すと慌ててついていく。ひな鳥みたいだ。

 蛇腹は、大きく一つ息を吐いてから、曇天を見上げて、目を閉じた。